自分の解像度を上げる
2023.4.13
今日は「自分と向き合うこと」について話したいい夜だった。
自分と向き合うことって結構気力がいる。鏡がないと自分の顔を見ることができないのと同じで、「自分のこと」というのはよくわからないし見えないものなのだ。それを必死で見ようとするんだから、そりゃあもがき苦しむのは仕方のないこと。
そして、もがき苦しんだあとに知る「自分のこと」について受け入れることもまた、しんどいけれど必要不可欠な工程なんだ。
昔こそ見境なく考えては落ち込んだり自信をなくしたりしていたが、そんな気力が今のわたしにはなく、しばらく自分について考えることはやめていた。
向き合うって一見自分の中だけでただ悶々と考えを巡らせることだと思いがちだが、それだけではないと思っている。
昔、ある人が「人からの評価が1番正しい。周りから思われてる印象こそが自分なんだ」と言っていた。
当時のわたしは「いやいや、本当のわたしについて知らない人だっている。わたしの気持ちをわかってくれてない人だっている。誤解されたまま評価されていることや知ったかで分析されたものが正しいなんてことはない。"それがわたしなんだ"なんて到底思えない」と思っていた。
当時というか、結構最近まで思っていた。
でも最近は、人からの評価が9割正しいかなと思っている。この正しいというのは、合ってるという意味の正しいではない。本当のわたしの気持ちとは相反するものだってある。ただ周りの人が"そうだ"と思うなら、"そう"なのだ。
たとえば、わたしが集団の会話に混ざっていたとして、一言も言葉を発さずひたすら心の中でツッコミを入れてたとする。今のめちゃくちゃいいツッコミ出来たなーと思ったとしても、その集団の人たちから見たわたしは「一言も喋らない大人しくて寡黙な人」なのだ。
実際、一言も喋ってないのだから間違ってはいない。めちゃくちゃいいツッコミをする人だな〜とは思われるわけがないのだ。
…たとえが極端すぎたかもしれない。
たとえば他には…同じ賑やかでも、あの人うるさいよねともなるしあの人ムードメーカーだよねともなる。同じのんびりでも、マイペースだよねともなるし鈍臭いよねともなる。
そんな周りからの総合的なイメージからくる評価みたいなものが、おのずと「わたし」を創り上げていく。
ただ、ここで忘れてはいけないのは、周りの人から言われることが全てなわけではないということ。あくまで向こうから見えてる部分はこうだよ、というだけなのだから、そうなのかーオッケーくらいでいい。周りからの評価を気にしすぎて個性がなくなってしまっては元も子もないからだ。
気にしすぎることよりも、いろんなデータを人からわけてもらって、こちらからでは「見えなかった自分」の解像度を少しずつ上げていくことが大事なんだと思う。
そうして周りから見られている自分とわたしの中の自分を照らし合わせて、少しずつその隙間や摩擦を減らしていく工程こそが「自分と向き合う」ということなんだろうなあ、という気がしている。
わたしは長い間、自分についてあまりちゃんと考えてこなかった。ロクに自分とも向き合ってなかったくせに、よくわからないまま"気持ち"ばかりやたら守ろうとしてきた。最近やっと気付き始めたばかりだ。
だからこそ思う。自分のことに目を向けなくてもそれなりに生きていけるこの世の中で、自分としっかり向き合おうともがける人たちは素晴らしい。わたしもそんな気力をまだまだ捨てずに、常に少しずつでも向き合いながら生きていけたらな。
考えがうまくまとめられていない気もするけど、たまにはダラダラと垂れ流してしまおう。