切り離された時間
2023.4.15
お仕事で東京方面に向かっていた。
生まれは大阪であるわたしだが、父の転勤の都合により学生時代は東京で過ごしていたのでその後大阪に戻ったあとも、友人に会いに行ったり大好きなディズニーランド&シーに行ったりするためにちょくちょく東京に遊びに行っていた。
というか、東京を離れてしばらくは「東京に遊びに行く」というより「東京に帰る」と言っていた。
なんとなくだけど、そこで生きていたという残り香や思い出たちがまだ濃く残っている東京にこそ、わたしの居場所があると思っていたんだと思う。
それが月日の流れというのは恐ろしいもので、東京にいた時間より関西にいる時間の方が遥かに上回ってしまっていて、気がついたらもう東京に居場所なんて残っていなかった。
今になって帰るって...どこに?だって自分が居た形跡や匂いがどこにも感じられない。あまりにも東京にいたあの時間から離れすぎてしまったんだ。もう懐かしいと思えなくなってきたのが何よりの証拠だった。
わたしの中で濃く大きかった数年が、今となってはたったの数年になってしまっている。年齢を重ねると、時間の分母が大きくなっていく分、相対的に物事がどんどん遠く小さく感じていくものなのだな。
てっきり思い出を引き連れて一緒に前に進んでいると思っていたけど、どうやら思い出はその場で立ち止まっていてわたしだけが進んでいるようだ。わたしは今も昔も変わらずただ寝て起きてをひたすら繰り返して生きているだけなのに、思い出は切り離されているかのようにそばにいない。
わたしの中の「東京BOX」にはたしかに思い出がぎゅうぎゅうに詰まっているのに、今のわたしとは全然違う遠いところにあるから、連続性のものであったか不安になるのだ。「本当に東京にいたっけ?」と。
わたしのこの京都での時間は、何年か経って振り返ったときどう感じるのだろう。
もう匂いもしないし小さいし色もところどころない東京の地を踏みながら、そんなことを思った。