カフェオレのように
2024.3.4
日本には、喪に服すという言葉がある。
故人を偲び身を謹み過ごすこと。
四十九日までのあいだ、案外毎日シクシク泣くことはなく、仕事をしたり法事の準備をしたりしながらそれなりに過ごしていたが、こないだふと、わたしの家から見える大文字焼きの山の景色をお裾分けしようとお骨(分骨してもらった)を窓際に置いたら途端に泣けてきてしまって、その日は鼻水とコーヒーを交互に啜った。
祖母は京都が大好きだったので、きっと「いい景色ね」と言ってくれてたに違いない。
そうして迎えた四十九日。無事法要と納骨が終わった帰りの電車、祖母が読んでいた本の山から気になるものをいくつかピックアップしてきた本を読んでいた。
京都を散策する本で、紹介しているお店選びのセンスも良さそうでパラパラとめくっていたら端が折られているページがいくつかあった。
何気なく見たそのページには京都の地図が載っていて、神社やお寺に赤いボールペンで丸印が付けられていた。あ、祖母が付けたものだ、そう思った瞬間には大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
この印を付けた場所は、行きたかった場所なのか、行ったことがある場所なのか、好きな場所なのかわからない。もう聞くことができない事実と、この本は祖母が持っていて祖母が書き込んだんだという生きていた事実が一気に押し寄せてきて、悲しくて泣いた。電車だったけど止められなくてぼろぼろ泣いた。
印をつけたところは絶対に全部わたしが行くからねと心の中で誓った。
喪に服す期間というのはある程度定められているようだが、実際はムラのあるグラデーションのような時間を過ごすことになるのでかなり曖昧になる。
コーヒーと牛乳がじんわり混ざっていくカフェオレのように、じんわりじんわりと、悲しみは日常に溶け込んでいって、わたしの中に思い出が混ざっていって、そしてそれはまたわたしとして生きていく。
「人間は忘れるように出来ている」
ドイツの心理学者がそう言っていた。
すべてを憶えていたら人間は生きていけないんだそうだ。辛いことは沢山は抱えきれない。本当にそう思う。
よく出来ているな、人間って。